Cafemme日記

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食べたものを記録することで過食症を克服する試み。のつもりだけど、最近どこへ行きたいんだお前は、とつっこまずにいられないブログ
by cafemme

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profile

hn: cafemme
age: 27
gender: female
from: kansai
currently in: canada
occupation: phd student
love: 家族、友達、いぬ、粉っぽい食べ物(スコーン、マフィン、ビスケット、ベーグルなど)、チーズ、でんぷん系統。コーヒー、紅茶、青汁。
煙草、香水、YUKI、メール、白ワイン(安物)、藤原基央、着物、京都、神戸、カフェめぐり、アンタイトル、夜更かし、濃紺、絵手紙。
dislike: 虫、孤独、プレッシャー、暴力、空き巣、嘲笑、肉体的特徴をいろいろとやかく言われたりいったりそういう空間そのもの。

personal:
10年ほどわずらってきた摂食障害(嘔吐のある過食と拒食)から、ようやく解放されている時期にあります。
小さな幸福をかみ締め、
どんな自分も好きでいたい、
凹んだりあがったり、いろいろしながら、一日一日大切に生きたい。
そんな日々です。

news:
掲示板作りました。
Cafemme日記 待合室
です。
ブログのコメント欄がちょっとめんどいとき、かたりたいとき、一句詠みたいとき、人生相談、うまかったもの自慢、一人上手、自己紹介など、なんでもどうぞ。

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過食嘔吐歴史 最終章

過食嘔吐の歴史第三部

修士課程スタート

修士課程に入ってから
私の毎日は、あれよあれよという間に忙しくなった。
新しい環境と人間関係になれるのにも時間がかかった。
でも、何よりも第一に、研究のほうがとにかく忙しくなってきた。
朝から晩まで、課題を読み漁り、課題論文を書く。
うちに帰っても、どこにいても、研究の進行のことしか頭に入らない。
だんだんリアルタイムで人としゃべることが減り、
わたしは、ひたすら理論とテキストの波に埋もれていった。
来る日も来る日も、研究室に閉じこもり、一人で論文を書いた。
だんだんと、孤独がリアルに私の体にしみこんできて、
私は自分の立ち位置がよくわからなくなってきた。
でも、ぐらついているひまなんてない、と自分を奮い立たせた。
休みたい、と思っても、意地になって走り続けた。
エンジンは、今は、止めちゃだめなんだ、と、信じていたからだ。

研究というものは、自分の思うようには進まないこと、を、
わたしはすぐに身をもって知ることになった。
講義のスピードについていけない自分。
プレゼンテーションで、パニックになる自分。
クラスメートとの終わりなき議論に疲労する自分。
教授との齟齬を、極度に恐れる自分。
ストレスがじわじわと、襲ってきた。
日中も、夜中も、わたしはよく、一人で泣いた。
ついていけない自分を受容できなくて、ジレンマに陥ったのだ。

修士に入ってすぐの頃は、過食嘔吐をしようなんて思ってなかった。
新しい環境だからこそ、もうあの頃には戻らないと決めてた。
これからは自分で新しい道を切り開くんだって、意気込んでた。
でも、ストレスとパニックアタックで、ぼろぼろのわたしは、
バカの一つ覚えみたいに、自分を癒す方法を、再び食べ物に求めた。

はじまりは、さんざんに論破され、グッタリ疲れきった帰り道だった。
ドーナツショップの前を通りかかった私は
ふいに、ウィンドー越しにみえた、いろとりどりのドーナツ。
わたしは、ほとんど無意識に、店の中に入り、
ドーナツを1ダース、買った。
そして、うちに帰って、電気もつけずに、立ったまま、むさぼり食べた。
食べ始めると、講義でのトラウマティックな経験や、苦い記憶が、
私の頭からゆっくり消えていった。
わたしは、また、あの場所に帰ってきたんだ。
私を傷つけない、優しい時間。食べる時間。
甘い砂糖。ひとりぼっちのフィエスタ。食べて食べて食べつくす孤独。
全部忘れられた。だから、一回ではやめられなくて、
私はそれからすぐに、過食嘔吐をくりかえすようになる。

またたくまに、習慣になり、必需品になり、わたしの生活の基盤になった。

論文や課題が増えるごとに、過食嘔吐の数も倍増。
朝から晩まで、食べてはいて食べてはいてのリピート。
勉強しているとき、仕事しているとき以外の
全ての時間を、過食嘔吐に費やしたといっても過言じゃない。
睡眠時間すら惜しかった。

朝起きて、授業に行って、
帰り道でもうすでに食べ始める。
カフェやフードコートを回って、
買い込みながらうちに帰って、
全部食べて、全部吐いて、
身支度を整えて、午後の仕事(教授の助手)に、戻って、
夕方まで仕事したら、
また食糧を買い込んで、自宅で過食嘔吐。
そのまま、体の力が持つ限り、
過食と嘔吐を繰り返してた。
気づいたら夜中だったこともある。
ユニットバスの壁に、汚物を顔にこびりつけたまま
ぼんやりともたれて、朝を迎えたこともあった。
いつものアラームの音で我に返り、
シャワーを浴びて何事もなかったように、学校へ向かうのだった。

はじめのうちは、過食材料をイチイチ外まで買出しに行っていたけど、
だんだん面倒になって、デリバリーに頼るようになる。
毎日のように、ピザやカルツオーネ、中華、チキンウィングなどを注文し、
たった一人でそれらを平らげて、嘔吐する。
夜中の半分を過食嘔吐に使い、
残りの半分を勉強に使う、という生活だった。

自分でも最低だと思ったのは、
職場の共用キッチンにおいてある冷蔵庫の
ストックを盗んで、過食に利用したこと。
自分でも、本当に、情けない。
でも、いったん、過食にスイッチが入ったら、
自分でもコントロールができなかった。
泣きながら、つめこんで、なきながら、吐き出した。


1タームが終わって、わたしは、心身ともにくたびれきってた。
友達もほとんどいなかったし、一人ぼっちで研究をしていると、
もう自分が何をやっているのかが見えなくなり、
恐怖とストレスでまた食べて・・・の繰り返し。


そんなある日、わたしはいつものように、
デリバリーした食べ物(チキンウィングとシチューだったと思う)を、
食べて、嘔吐しようとした。
便器に腰を折り曲げた瞬間、
背筋がすうっと寒くなった。
目の前の、水面に、真っ赤な鮮血が、おびただしく広がっていた。
咽喉の奥に、鉄の味がした。
口元に手を当てると、だらだらと、血があふれてきた。
鏡を見ると、顔が真っ青だった。
でも、胃の中には、チキンやスナック菓子が入ってる。
吐かなきゃ、!!
わたしは、ほとんど狂ったように、便器にしゃがんで、嗚咽をしようとした。
すると、かわりに、また、真っ赤な血が出てきた。
また、背筋がすっと寒くなった。
今度は、頭がぼんやりしてきた。
くらくらして、しりもちをついた。
胃の中で何かが起こってる・・・
恐怖に包まれて、、わたしは、はくことをあきらめ、立ち上がろうとした。
でも、立ち上がれなかった。
重度の貧血状態。

危険を感じて、わたしは、服を羽織、廊下へ飛び出した。
隣人の戸をたたく。
でも、だれもいない。
たすけて!私、出血が止まらない
叫びそうになりながら、一つ一つドアをたたく。
ようやく、一人の男の子が顔を見せてくれた。
口元を血まみれにしてる明らかに異常な私を見て、彼は、
「Oh my God」と、つぶやいた。
すぐに、救急車を呼んでくれて、付き添って病院まで行ってくれた。
彼と、彼の友人だという男の子も、すぐに駆けつけてくれた。
わたしは彼らと初対面だった。

病院の救急室で、看護婦に、
「どういう状況でこんなことになったか言いなさい」といわれた。
わたしは、男の子が二人いる前でどうしても言うことができなくて、ボロボロと泣き出した。
看護婦は、とげとげした口調で、「泣いてても、言ってくれなきゃわからないわ!」といった。
わたしは観念して、
「わたしは摂食障害を持っていて、過食嘔吐をしていたら、血があふれたんです」、といった。
背後に立っていた男の子二人が、息を呑むのがわかった。
自分を殺したいくらい恥ずかしくて、わたしはごうごう泣いた。
看護婦が、何も言わずに、何かをカルテに書いていた。

そこから別のもっと大きい病院へ移された。
精密検査をするといわれたのだ。
男の子二人(NとK)も、ついて来てくれた。
ベッドに寝かされて、血液検査とか色んな検査をされた。
その日は、入院することになった。
Kくんの彼女さんという女の人が、病室にきてくれて、
私のために買った下着や着替えを渡してくれた。
初対面の人だったので、びくびくしたけど、
彼女がふわっと、花のように笑ったので、少し安心した。
彼女は、男の子二人を、「あんたたちは出た出た!」と、軽妙な口調で追い出してくれた。
二人きりになると、彼女は私の肩を抱いて、
「私も、同じ病気で苦しんでたの、だから心配しないで。
泣いていいのよ、
あなたは悪くないんだよ」
と、いって、それから、きゅっと抱きしめてくれた。

私の中の、いっぱいの傷口が、ぎゅーーーーっとその瞬間、
一気に泣き声を上げた。
誰かに、そういってほしかったのだ、と、
思った。
涙が後から後からあふれた。
悲しくて嬉しくて、気持がはじけたんだとおもう。
あの時しがみついた、彼女さんの、モヘアのセーターの感触をまだ覚えてる。
バニラの匂いがする、可愛らしい人だった。

二日あけて、わたしは退院を許された。
出て行くとき、医者に、「きみは、セラピストが必要なんじゃないかね」といわれた。
わたしは少し考えて、いりません、と断った。
(そのときの選択が正しかったのかどうか、私には今もわからないし、
そういうことの是非について、考えたくない)

二日間の遅れを取り戻すために、わたしはまた研究と仕事に没頭した。
嘔吐をやめても、血は、しょっちゅう吐いた。

冬の間に、三回も、病院に運ばれた。
過呼吸とパニックアタックに苦しめられた。
体が無理だといったんだと思う。
その間も、あの時付き添ってくれたNくん、Kくん、Nくんの彼女は、
私を見舞ってくれ、おかゆや日本料理を作って、
私をいたわってくれた。本当に感謝しても仕切れない。

ある晩、徹夜で論文を仕上げているとき、
わたしは、空腹に襲われて、買い置きしてあったチョコレートを、
衝動的に無茶食いした。
じきに、ものすごい腹痛と、吐き気に襲われた。
でも、病院に行きたくなくて、どうすればいいかわからなくて、
日本の母親に、電話した。
お母さんの、からっとした「どうしたの~~?」という声に、
わたしは電話口で、声を殺して泣いた。

辛くて苦しくて、
そのとき、はじめて、
「死のう」と思った。

その夜、死ぬことが、急に現実に思えた。
過食嘔吐からもストレスからも開放されたい。
もう、おわらせたい。
一晩中考えた。

でも、やっぱりできなかった。
当然だ。生意気言ってる。わたしは、苦しみの全てを経験したわけじゃない。
自殺なんて、できるわけない。臆病で、内弁慶だからだ(どこまでも中途半端です)

少し休むべきなんだ、と思った。
ちょうどそのとき、大学の大きなシンポジウムでの研究発表を控えていたので、
それが無事に済んだら、一旦休みをもらって、
日本に帰ろうと決心した。

シンポジウムはうまくいき、わたしは日本へ戻った。
日本では、お母さんやお姉ちゃん、大好きなおばあちゃんが、迎えてくれた。
親友や、男友達とも再会し、みんなが、心から私を励ましてくれた。
わたしは、一年間のストレスに埋もれた自分を解放してやることができた。
過食嘔吐はぴたりとやんだ。

3ヶ月の休暇のあと、大学へもどる。
過食嘔吐はたまに発生したけど、その頻度は明らかに減っていた。
デリバリーも、あれほど強迫的に通ったドーナツショップにも、
過食目的で行くことがなくなった。



わたしはこのブログを始めた。
過食嘔吐は、いまほとんどでてこない。
もちろんまだ、過食欲求にはしょっちゅう苦しむし、
先日みたいに、ついやっちゃった!最低!ってなことだってあるわけだ。
でも、確実に、快方へむかっていると、いえる。

その要因はひとえに、今の人間関係だろうと思う。
KくんやNさん、Iさん、Mちゃん、それから職場の友人たち。
彼ら、彼女らとの出会いはとても大きかった。
私が落ち込んだとき、いつもそばにいてくれた人たちだから。
そして、いつもかわらず、私を支えてくれる家族の愛情の存在もある。
同時に、このブログをはじめて、
心優しいメッセージや、励ましの言葉を下さった、まだ見ぬ人たちの言葉に、
わたしはどれほど励まされてきたか、わからない。
わたしは、一人じゃないんだと、見えない空の向うを、今、見つめられる。

私と過食嘔吐の付き合いはこれからもきっとつづくのだろう。
でも、わたしはへこたれないだろうとおもう。
「死にたい」と思った夜、
それでも、生きることを選べたのは、家族が、友達がいたからだ。
わたしは、見えないところで、無数の愛情に支えられている。
そのことを忘れそうになる日がある、
そんな時、わたしは誰かに頬をひっぱたいてもらいたい。
「あんた、ナルシストぶってんじゃないよ!いいからさっさと、呼吸しな!」って。
そして、またこの足で歩き出したい。

格好悪くても、みじめでも、矛盾に満ちてても、
とにかく生きていたい。
それしか、私には、もうできない。

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